
異世界

著者:米澤穗信
2年前に事故で東尋坊から墜落死した恋人を弔うために、同じ場所に立った嵯峨野リョウ。だが彼もバランスを崩して崖から落ちてしまうのだ。そして気がつくと、そこは彼女と初めて言葉を交わした金沢の公園であった。
ところがそこは、彼が存在しない世界で、彼の世界では水子だった彼の姉が生きている世界だったのだ。姉のサキは想像力と行動力に優れ、全てにおいてリョウを凌いでいる。そして死んだ彼女も生きているし、最悪だった家庭も平和な状況だったのである。
ここまでは、パラレルワールドの世界そのものだ。そしてリョウが存在する世界とサキが存在する世界を一つ一つ比較してゆく。
なかなか面白い視点の小説だと思った。それでぐいぐいと引き込まれて、あっという間に読破してしまったのだが、終盤に再び東尋坊から帰ってきてからというものの、急に重苦しい展開となる。そしてタイトルのボトルネックの意味が解明されてゆくのだ。
結局、作者は何を言いたかったのか。このタイトル通りに解釈するには、余りにもリョウが救われないではないか。単なるパラレルワールド小説に落ち着かなかったことは評価に値するかもしれないが、なんとも後味の良くない複雑な気分でもある。
評:蔵研人
著者:村上龍
まずこのタイトルに惹かれ、しかも著者が村上龍であることを知り、この古い本を読む決意をした。
文庫でわずか293頁の作品なのであるが、主人公は初めからいきなり訳の分からない戦場で、国連軍とアンダーグラウンドとの戦争に巻き込まれてしまう。そして主人公の名前が、小田桐ということ以外は全く固有名詞が出てこないのである。
そもそもここでいう国連軍が、我々が知っている現在の国連軍なのかも判らないうえ、「アンダーグラウンド」なんぞというのは聞いた事もない。スターウォーズの悪の帝国を真似たのだろうか・・・。
そして主人公の小田桐は、訳の判らない戦闘と労働を強いられるが、彼の周囲にいる人間のほとんどが混血で、日本人は26万人しか存在しないという。さらには、オールドトーキョーだのオサカなどというスラム化された町があるという。もしかすると核戦争で人類はほぼ絶減し、わずかに残ったミュータントのような人間達が、性懲りも無くまた戦争をしているのか?それでオールドトーキョーは昔の東京のことで、オサカは大阪のことなのだろうか?・・・。
などと考えるうちに戦闘シーンが激しくなり、体中が燃え尽きたり、手足や顔が肉片となり吹き飛んで、死体の山が積まれてゆく。一体何で、こんな所にいるのか、何故こんな戦いをしているのか、小田桐は何物なのか、何も判らず説明もなく、ただただ残酷な殺戮シーンだけが延々と121頁まで続くのだ。
これではまるで、SFアクション映画ではないか!これは小説なんだろ、しかも芥川賞作家の村上龍の作品だよな!それに彼は、あとがきで最高傑作と自我自賛しているではないか、「そのうちきっと面白くなるのだ・・・」自分に何度もそう言い聞かせながら、ブン投げたくなる気持ちを押さえながら、シンドイ気分でページをめくり続けた。
121頁まで延々と続いた戦闘シーンがやっと一段落し、第5章「アンダーグラウンド」へ進む。小田桐はここから文字通り、地下にある「アンダーグラウンド」という世界へ連れてゆかれる。そしてここで、この世界の正体を知ることになるのだ。
小田桐が現在いる世界は、『五分後の世界』というよりは、なにかの拍子に迷いこんでしまった『パラレルワールド』だったのだ。そしてその世界では、今迄彼が住んでいた世界とは5分間のズレが生じていたということなのだが、なぜ5分間のズレがあるのかは、結局最後まで全く不明であった。詰るところラストシーンで『ある決心』をすることを、示唆するための一種の小道具に過ぎなかったのだろうか。
さてこの『パラレルワールド』は、大平洋戦争で日本が広島、長崎に原爆を落とされても、連合軍に降伏しないまま、さらに小倉、新潟、舞鶴にも原爆を投下され、それでも降伏せずに、延々と戦争を続けている世界だったのだ。
そして本土は、続々と連合軍に占領され、わずか26万人になってしまった日本人達は、地下2000mに逃げ込んで、そこに小都市を創ったという。それが「アンダーグラウンド」と呼ばれる場所なのである。それでも彼等は、依然としてゲリラ戦を続けて、連合軍との戦いを辞めようとしないのだ。
しかも天皇は、スイスに逃れているという。一体日本人は何のために、そこまで戦いを続けるのか。それはアインシュタイン博士に言わせると、『自由と勇気とプライド』のためなのだそうだ。
まるでアラブ系の自爆テロ集団や北朝鮮のようではないか。おそらく平和ボケした、現在の日本人達に対する痛烈な皮肉なのだろう。
ところでこの辺りから、やっとこの世界のバックグラウンドが見え始め、この小説の行く末が気になり出すのだ。そして美人将校のマツザワ少尉の登場や、その家族達の生活や慣習を知るうちに、一瞬なんだか懐かしく、心良い気分になってしまった。
その後「アンダーグラウンド」に住む世界的ミュージシャンであるワカマツのコンサートが、オールドトーキョーで開催されることになり、小田桐は護衛兵とともに「アンダーグラウンド」を出発する。これは小田桐を元の世界に戻すための旅でもあったのだが・・・。
そしてまた100頁以上の暴動と戦闘が、ラストまでいやと言うほどしつこく続くのである。せっかく新たなる展開に、心を弾ませた私が甘かった。もう勘弁してくれと、祈るような気持ちで、やっとこの小説を読み終わったときは、精魂尽き果てて、くたくたになってしまった。著者の強烈な信念と、チャレンジ精神には脱帽するが、もうこんな実験小説にはつき合いたくない。
ところが巻末の解説文で、渡部直已氏は、「作者が主人公の内面について一切説明せずに、ひたすら戦闘場面にのみ直面させられ続ける状況」を次のように語り、この作品を絶賛している。
『すなわち、主人公の決定的な改心(コンバート)を、戦闘描写(コンバット)の異様な持続そのもののなかから引きだそうとすること』
・・・さすがにプロの評論家は、するどい視点と臭覚と文体を駆使して、ゼニのとれるレビューを創り上げるものだと感心してしまった。
評:蔵研人
山田太一の小説を読んでから、この作品が映画化されていることを知った。監督はファンタジー作品の大御所である大林宣彦監督で、主演は風間杜夫、恋人役に名取裕子、父親役は片岡鶴太郎、そして母親役に秋吉久美子と、ハマリ役揃いである。これではこの映画を観ない訳にはゆかない。ただこの映画が上映されたのが、1988年と古過ぎるため、レンタルビデオ店で探し出すのが一苦労だった。
映画の良いところは、昔ながらの浅草の街並や寄席の雰囲気を、ほのぼのとした映像で表現出来たことだろう。母役・秋吉久美子のアッパッパーやシュミーズ姿には、古きよき時代の懐かしさを感じて泣けてしまった。また自分より若いが頼りになる父役を、片岡鶴太郎がこの人しかいないという程見事に演じている。
この映画は原作に忠実で、ほぼ原作通りの展開なのだが、二つの大きな問題点があった。ひとつはネットで皆さんが指摘している通り、名取裕子と別れるシーンだ。あれは酷すぎる!せっかくすき焼き屋で流した熱い涙が、一辺に乾いてしまったではないか。そしてその時点で、B級ホラー映画に転落してしまったようだ。一体大林監督は何を考えていたのかと、首を傾けざるを得ない。
もう一つの問題点は、主人公が離婚して一人息子ともしっくりせず、狭いマンションで1人寂しく暮らしていた、というバックボーンをじっくり描いていないことである。この重要な事実を省略してしまったことは、致命的なミスである。つまり主人公のこうした心理的な疲労感がなければ、異人たちを呼び起こすこともなかったからに他ならない。これだけの俳優と名監督をしても、原作の小説には遥かに及ばなかったのが非常に残念である。
評:蔵研人
著者:山田太一
かなり昔出版された小説で、確か映画も上映されていたはずである。なにしろ出だしから最後迄ずーと面白いし、文庫本で220頁の薄い本なので、あっという間に読み終わってしまった。内容は荒唐無稽でちょっと変わった作品だが、SFやホラーというジャンルではなく、純文学でもない。
そこには山田太一ワールドが広がっていた、というより言いようがない。登場人物は死んだはずの父母と、恋人、友人、別れた妻と圧倒的に少ないのに、なんとなく賑々しい感じがするのも不思議なのだ。たぶんそれは自分よりずっと若い父母と、浅草の街の取り合せが、実にしっくりとしていて、陽だまりのようなノスタルジーを肌に感じたからであろう。
この若い父母は主人公が小さい頃に、交通事故で亡くなったはずなので、結局は幽霊ということになるのだが、どちらかというと主人公が異世界へ迷い込んだと言っても良いかもしれない。
私自身も父が亡くなった年令から二回り以上超えてしまったし、とうとう亡母の年令もとっくの昔に超えてしまった。それで他人ごととは思えず、まるでこの小説の中で、自分自身も亡父母に巡り会ったのかと錯覚してしまい涙々の嵐なのだ。
それにしても昔の人は皆しっかり者だった。30才を過ぎれば皆一人前の大人だったし、うだうだ言わずによく働いていたと思う。だから父親は頼りがいがあったし、反面怖い存在でもあった。一方母親は優しく、自分の事よりいつも夫や子供のために生きていたものだ。
この作品に登場する亡父母に、自分の亡父母の影が重なり、私の心も父母が生きていた時代に跳んでしまった。こうなったら、もう涙が流れ出して止まらないのだ。ただ同時進行してゆく胸に火傷の跡がある女との恋は、切なくもの悲しい。そしてラストには、用意周到なドンデン返しが待ちかまえているのである。
この手のお話を理解するには、少なくとも40年以上の人生経験を積んでいないと辛いかもしれない。とはいっても、きっと若い人達にも何かを感じるところがあるはずである。
評:蔵研人