
★★★☆
本ブログは、タイムトラベルファンのために、タイムトラベルを扱った小説や論文、そして映画やマンガなどを紹介しています。ぜひ気楽に立ち寄って、ご一読ください。
著者:板橋雅弘
タイトルやカバーイラストを見れば、誰でもあの名作『時をかける少女』を髣髴してしまうだろう。そして少女がオジさんに代わったパロディ版の『時かけ』なのだろうと想像するはずである。
ところがぎっちょん、主人公のオジさん西東彰比古自身がタイムリープする訳ではないのだ。タイムリープするのは、彼の初恋の人で高校時代に同級生だった時岡留子なのである。
その留子は謎の転校生として突然16歳の彰比古の前に現れ、ある事件を解決するといつの間にか消えてしまう。そして次は16歳のまま突如46歳の彰比古の前に現れるのである。
年を取らない彼女は一体何者なのか、そしてどこからどんな目的をもって現れたのであろうか。それをバラせばこの小説の旨味は半減してしまうので、ここでは秘密にしておこう。
文字が大きくてストーリー展開がテキパキしているので読み易く、あっという間に読了してしまった。また過去と現在を行ったり来たりするので、なかなか興味深かったのだが、途中から急に荒唐無稽でマンガチックな展開に染まってしまったのは筆不足かも・・・。ただラストのまとめ方だけは、そこそこ味わい深かったよね。
評:蔵研人
★★★☆
著者:ジャック・フィニイ 翻訳:福島 正実
イラストレーターのサイモン・モーリーは、ニューヨーク暮らしにうんざりしはじめていた。そんなある日、政府の秘密プロジェクトの一員を名乗る男が訪ねてくる。このプロジェクトの目的は、選ばれた現代人を、過去のある時代に送り込むことだった。そしてサイモンは、『青い手紙』の謎を解くために過去に旅立つことになる。
ここまで書くとなんとなくSF小説のようだが、だが過去に跳ぶ方法はタイムマシンではない。実は過去そっくりに創られたセットの中で、過去の服装をして、自己催眠をかけるようにして過去に行くのである。
この方法はリチャード・マシスンの『ある日どこかで』と全く同じ方法である。もちろん本作のほうが少し早く出版されているので、『ある日どこかで』のほうが真似たのかもしれない。いずれにせよ『ある日どこかで』同様、SFというよりはラブファンタジーとして分類したほうが適切だろう。
本書が古典的な名作であることは間違いないのだが、1880年代のニューヨーク風景が延々と綴られるので、ニューヨークをよく知らない者や興味のない者にとってはかなりの苦痛となるはずである。かくいう私も、途中何度もこの本を投げたくなったものだ。
広瀬正の書いた『マイナス・ゼロ』というSF小説がある。こちらはタイムマシンで昭和初期に跳び、古き良き東京の風景と人情を描いているのだが、昔の東京を知っているためか、懐かしくてなかなか味わい深かい作品であった。おそらく本書の風景描写も、古きニューヨーカー達にとっては、同様の気分を味合わせてくれる嬉しい描写なのかもしれない。
さて本書は、上下巻それぞれ350頁程度ある長編小説なのだが、上巻は先に述べた通り古き良きニューヨーク風景描写に終始していて、ニューヨーカーでない我々日本人には、かなりの忍耐力が要求されるだろう。だが下巻になると、やっと登場人物間の会話や心理描写が介入しはじめて、俄然ストーリーもメリハリを帯びてくる。そして下巻の135頁頃からは、火災脱出や逃亡劇などのアクションシーンの応酬で息つく間もなく、やっと面白さが暴発するのだ。そしてそこからは、ホップ・ステップ・ジャンプで、一気にラストまで読み込んでしまうはずである。
と言いながらも、相変わらず執拗に古きニューヨークの描写は途切れない。ほんとうにこの著者は、古きニューヨークにのめり込んでいるのだと、感心したり呆れてしまうのだが・・・。ただ写真やスケッチ、あるいは当時の新聞記事などを巧みに利用してマンネリ化を防止している。これは実に見事な創作手法ではないか!。ただあの傷んだ写真や絵は、一体誰がどこで手に入れたのかが気になるところである。
評:蔵研人
★★★☆
著者:梶尾真治
とても可愛いカバーイラストを見ればすぐに判るが、本作は中学生向きのライトノベルである。ちょっぴり教育的な部分もあるが、大人が読んでもワクワクしながら楽しめるので、どうぞご心配なくお読みください。
本書の原典は週刊『朝日中学生ウイークリー』で連載された「彩芽(わたし)を救え!」と「水紀がジャンプ」の二作品である。それに加筆・修正して一冊にまとめたのが本書と言うことになる。
どちらも梶尾ワールドの神髄である時間テーマものであるが、それぞれ「意識のタイムリープ」と「タイムマシンを使ったタイムトラベル」ものに分類すればよいだろう。
「彩芽を救え!」は、交通事故で死にかけた少女の意識が、時空を超えて次々に身近な人々に乗り移りながら、なんとか自分自身を事故から救い出そうとするお話である。また「水紀がジャンプ」のほうは、変わり者の伯父さんが発明したタイムマシンに乗って、アラビアンナイトの世界と恐竜の世界を冒険する少女のお話である。
どちらの作品も、時空の旅がテーマになっているのだが、次は一体どうなるのかと、気になりながらあっという間に読破してしまう構成も似ているではないか。また二作まとめて新書版で約220ページという手ごろな長さなので、速読の得意な人なら2、3日もあれば簡単に読了してしまうに違いない。とにかくライトノベルの名の通り、軽くて楽しい小説である。
評:蔵研人
製作:2016年 日本 上映時間:120分 監督:平川雄一朗 原作:三部けい
原作のマンガを先に読んでからこの映画を観た。序盤から中盤までは、ほぼ原作をなぞったダイジェスト版だった。だが終盤になってストーリー展開が急変してくる。さらにはなぜか結末をバッドエンドにチェンジしてしまったのである。
時間の制約もあるため、実写映画化にあたってストーリーを再編することは良くあるが、結末をこれほど変化させては、別の作品に修正してしまったようで納得できない。よくこの結末を著者が許可したものである。
主人公は漫画家をめざすフリーターの藤沼悟。彼は事件や事故が起こると、時間がループする体質である。それで事故を未然に防いだこともあった。だがある日家に帰ると、母親が何者かに刺されていた。成り行き上、彼は容疑者にされてしまう。そして逃亡中に意識を失い、18年前にタイムスリップしてしまうのである。タイムスリップと言っても、小学生時代の自分の心の中に、大人の自分の心が移動したのだった。
この過去には、未解決の少年少女殺人事件が何度も発生している。もしかするとこれらの事件を解決すれば、母親が刺される未来も改変できるかもしれない。そう考えた悟少年は、殺害されたクラスメートの雛月加代を救う決心をする。といった展開でタイムトラベルとミステリーを複合させた興味深いストーリーである。
原作のストーリーは良く出来ているのだが、個人的にはあの絵が好きではない。とくにキャラの目がみな同じようで、硬い感じの絵柄にも同調できないのだ。逆に映画のほうは、映像や俳優は良いのだが、ストーリーに共感できないのである。
ということは、この映画を原作に忠実に創っていればかなり好感を持てたと言うことになる。非常に残念でたまらない。
評:蔵研人
著者:梶尾真治
リリカルファンタジー小説の御大・梶尾真治の短編集である。中味は表題の「ムーンライト・ラブコール」のほか、「アニヴァーサリィ」、「ヴェールマンの末裔たち」、「夢の閃光・刹那の夏」、「ファース・オブ・フローズン・ピクルス」、「メモリアル・スター」、「ローラ・スコイネルの怪物」、「一九六七空間」の8篇で構成されている。
表題作は月面基地勤務の彼から地球の彼女に届けられた、壮大な愛のメッセージを描いた超・ロマンチックな話であり、全般的に宇宙を舞台にした物語が多い、これらの短編がのちの大長編SF『怨讐星域』の下地になっていたのだろうか。
まあ全てそこそこ面白いのだが、私が期待していたタイムトラベルものは『一九六七空間』だけで、ちょっと淋しかったね。その『一九六七空間』とは、タイトル通りビートルズ全盛時代の1967年にタイムリープして青春をやり直す話である。よくある話であり、ラストの落としどころもいま一つで、私の期待には100%答えてくれなかったのが残念であった。
それにしても尾之上浩司氏が書いた本書の解説は、なんと22頁にも及ぶのである。その内容は梶尾真治の代表作のランキングとその書評に終始していて、梶尾真治超入門書そのものなのだ。それはそれで良いとしても、本書にに収められている作品の解説が「一つもない」のは、ある意味で手抜きではないのだろうか。
評:蔵研人
製作:2010年 日本 上映時間:122分 監督:谷口正晃 主演:仲里依紗
今までこのタイトルの映画を何度観ただろうか。筒井康隆の原作が初めて世に出たのは昭和40年代であるが、昭和58年の大林監督作品を皮切りに、なんと4回も映画化されているのだ。
SFファンタジーなので、余り時の経過が長過ぎると陳腐化してしまう。それで4年前に上映されたアニメ版では、原作を大幅に改ざんして、「原作の主人公の姪」が主人公になり、時代背景も原作から約40年後という設定に変えられた。
そのお陰で、主人公の女子高生が超ミニをはいても違和感がなく、テンポもよくストーリー的にもかなり好評で、期待以上の興行収入をあげたようである。二匹目のドジョウを狙ったのか、本作も時代背景が現代となり、主人公は「原作の主人公の娘」という設定になっている。
今回は、原作の主人公(母)が高校生だった時代にタイムスリップするという思い切りの良い設定には好感が持てた。また主人公の仲里依紗は、序盤こそぎこちない演技であったが、切なさと爽快感の双方を併せたような存在感が可愛かったね。それに、『純喫茶磯辺』や『パンドラの匣』のときはポッチャリしていたのに、かなりスリムになりキュートになった気がする。
それと、中尾明慶扮する涼太の風貌が、昭和40年代の青年そのものであったことには笑えたな。彼はまさに私の青年時代の友人と、そっくりだったのである。
ただ残念なことに、低製作費のためか、ボロアパートを除けば、ほとんど昭和40年代の風景が出現しない。それからタイムスリップ時の映像も、大昔のTVドラマ風でかなりチープである。また中だるみというのか、恋愛ドラマに力点を置き過ぎた結果なのか、母から頼まれた人物探しも中途半瑞だった。
しかしながら、探していた人物が登場してからは、急にテンポが良くなり、ストーリー展開も面白くなる。ただタイムトラべルファンとしては、もっとパラドックス風味も織り込んで欲しかったな。もしかすると、脚本創りをした人が、タイムトラべルには余り興味がなかったのかもしれないね・・・。
評:蔵研人
製作:2004年 米国 上映時間:98分 監督:ゲイリー・ウィニック
2004年に製作された作品で、全米でヒットを記録したのに、なぜか日本では劇場未公開だったようだ。13歳の少女が大人に憧れるうち、少女の心のまま、30歳の自分に乗り移ってしまうという、ラブファンタジー作品である。
過去にトム・ハンクスが演じた『ビッグ』という似たような映画があるが、本作は『ビッグ』のように自分が大人の体になるだけではなく、周囲も同じように変化しているということ。つまり17年後の世界の自分に、精神だけタイムスリップしてしまうというお話なのである。
タイムスリップ理論からすると、いろいろとあげ足取りが出来る展開なのだが、コメディーなので、この際細かい事にこだわらずに、気楽な気持ちで鑑賞しようではないか。マドンナやマイケルの曲も、実にノリが良く楽しかったぜ。
もしもあの時こうすれば、と後悔しても時間は戻せない。だがこの映画では、そんな後悔やストレスも吹き飛ばしてくれるので、とても幸せな気分になれる。そして主演のジェニファー・ガーナーが、とてもキュートで可愛いのだ。
笑いあり、涙あり、その中にちょっぴり教訓もあって、逆転また大逆転の展開も納得出来てしまう。よかったら、DVDをレンタルして、恋人と一緒に観てみようではないか。
評:蔵研人
著者:ギヨーム・ミュッソ
60才になる医師のエリオットは、肺がんを患い余命数ヶ月の運命であった。カンボジアのジャングルで命がけで医療に専念したお札にと、原住民の村長から不思議な薬をもらう。この薬は全部で10錠。薬を服用して眠りにつくと、数十分間だけ30年前にタイムスリップすることが出来るのだ。
自分の責任で最愛の恋人だったイレナを亡くしてしまったエリオットは、死ぬ前に一目だけでも生前の彼女に逢いたいと、半信半疑で薬を飲み、30年前にタイムスリップする。そしてそこで最初に出逢ったのは、30才の若かりし日の自分自身であった。
30年前にイレナを事故から救えば、20年前に行きずりの女性との間に出来た愛娘のアンジーが生まれてこない。この矛盾した二つの命を救うことが可能なのか…。
タイムトラべルと恋愛を組み合わせたラブ・ファンタジー作品は、ハーレクインものを含めて山ほどある。大体がハッピーエンドのラブファンタジーか、切なさの残るリリカルファンタジーのどちらかである。
だが本作はそのどちらにも属しているうえ、ファンタジーにサスペンスとアドベンチャーをブレンドした魅力を併せ持っているのだ。またテンポが良くリズムカルなので、まさに映画を観ているのかと錯覚してしまう。
映画と言えば、本作はフランスで映画化されることが決定しているという。早くこの映画を観たいなぁ…。だがネットを探した限りでは、フランスで映画化されたという情報は得られなかった。ところが2016年12月に韓国でこの小説を基にした映画が上映されていたのである。邦題が『あなた、そこにいてくれますか』だったので気が付かなかったのだが、友人から情報を得てはじめて分かった。もちろんすぐに鑑賞し、なかなか素晴らしい映画だったことを記しておく。
ここまでは、良いことずくめ作品のように書いてしまったが、気になることもいくつかある。まず過去の自分自身と逢って、会話までしているのは、非常に不自然ではないか。60才のエリオットは、30才のときに未来の自分とは逢っていないからである。
このように、過去の自分と逢ってしまうと、タイムパラドックスが発生してしまうので、通常はこの状況を避けるか、過去の自分には気づかれない配慮が施されているものだ。まあ本作は、過去の自分との接触がないと成立しないので、ここは目をつぶるしかない。
もうひとつ腑に落ちないのは、過去のエリオットが、未来のエリオットの言うことを、苦悩しながらもことごとく守るということだ。イレナとは結婚しても、いいじゃないの。20年後に行きずりの女性と浮気すれば、娘のアンジーも無事生まれるはずである。
また浮気をせずにアンジーが生まれなかったとしても、それはパラレルワールドでの話なのだから、深刻に考えることもないと思うのだが…。
この二点だけが、どうしても納得出来ない。だが、著者の巧みなストーリー展開のため、イレナが登場するあたりから、グイグイとお話の中に惹きこまれてしまった。そして終盤は、通勤電車の中にもかかわらず、涙々の大感動で読了したわけである。
評:蔵研人
著者:小路 幸也
『カレンダー・ガールズ』という英国映画があったが、本作は全くそれとは関係がないので念のため…。本作は、中年の男性2人が、同時に少年時代にタイムスリップして、あの3億円事件を阻止し、クラスメートの少女を救うというお話である。
タイムスリップものは数々あれど、2人同時に心だけがタイムスリップし、毎日寝るたびに過去と現在を往復するという話は珍しい。浅田次郎の『地下鉄に乗って』とやや似てはいるが、心だけタイムスリップというところが全く異なっている。なおタイムスリップして三億円事件に関与するという展開では、清水義範の『三億の郷愁』そのものだが、犯人側と阻止する側という根本的な違いがある。
また昭和時代のノスタルジーに浸るという展開では、広瀬正の『マイナスゼロ』を彷彿してしまう。なかなか楽しくて、一体どのような結末を迎えるのか、ワクワクしながらページをめくり続けた。
だがラストの収束がかなり大雑把で判り難いのだ。なんだか急に面倒くさくなって、適当に幕を下ろしてしまった感がある。それまでは、かなり面白い話だったので、非常に残念な気分になってしまった。アイデアは素晴らしいし、実にもったいない作品である。本ブログの評点システムは、中間点が付けられないのだが、正確には★★★☆(3.5)くらいかもしれない。
評:蔵研人
著者:重松清
悲惨な女性の思い出を秘めて、渋谷の街を歩いていると、伝説の娼婦が現れ、セックスをしながら、男を過去に運ぶという。そして男に、不幸のどん底に沈んだ女を救わせるのだ。
なんだかマンガのような話を、直木賞作家が大真面目に書き綴る。週刊ポスト誌に連載されたシリーズを、オムニバスにまとめた単行本の二冊目で、「哲也の青春」と「圭の青春」の2作が納められていた。
どちらも似たような過激な性描写が多く、それが少しくどく感じられる。週刊ポスト誌の要求なのかもしれないが、もう少し控え目に描いたほうが、逆にもっと欲情すると思うのだが・・・。
どちらかと言えば、僕には「圭の青春」のほうがお気に入りである。この作品では、義姉へのあこがれと郷愁が見事に融合し、心の琴線に熱いものが触れた思いがした。
一方の「哲也の青春」は、ロックグループという馴染みの薄いテーマのためか、やゝ感情移入し辛かったね。
ストーリー的には、どちらも良く練り込まれており、直木賞作家の力量をみた思いがする。こんな小説を読んでいると、僕も一人で夜の渋谷を歩いてみたくなってしまった。
評:蔵研人
著者:大江健三郎
ノーべル賞作家「大江健三郎」が書いたとは思えない不思議なタッチの本である。恐らく彼がこのような小説を書くのは、最初で最後になるであろう。
「二百年の子供」というタイトルは、120年前の過去と80年後の未来をタイムトラベルした3人兄弟の話だからなんだね。これはSFとかファンタジーというよりも、お伽ばなしというほうが似合っているかもしれない。
三人でシイの木のウロに入って、手を繋いで同じことを念じると、その念じた時代にタイムリープするのだ。本当にタイムトラべルしているのか、はたまた同じ夢を観ているのかは最後まで謎のままである。
ただ薬やナイフを置いてきたり、手紙や石笛を持ってきたり出来たのだから、夢ではないのだろう。しかし複数で同時に見るリアルな夢が、実はタイムトラベルなのかもしれない、というアイデアは仲々面白いよね。
兄は知的障害者、兄思いの妹は感情の起伏が激しく、弟は機敏で老成している。とても個性のある兄弟達だが、三人三様で見事にジョイントするのだ。そして妹も弟も、兄のことを「真木さん」呼ぶのもユニークである。
この小説は、2003年1月から10月まで、読売土曜朝刊に掲載されたジュブナイルである。これより9年前に大江氏は、ノーべル文学賞を受賞し、作家としての締めくくりを迎えたのであろうか。
この作品では、子供と老人との関わりや、今という時間の大切さを優しく書き綴っている。少年少女向けと言いならがら、なかなか味のあるテーマと文章で紡ぎ込まれてあった。
読み易いのであっという間に読了してしまう。まだ未読の方は、機会があれば是非読んでみて欲しいね。
評:蔵研人
製作:2006年 日本 上映時間:100分 監督:細田守
かなり昔に筒井康隆の原作と、原田知世の映画を観たが、女子高生がタイムスリップするということ以外は、綺麗さっぱり忘れてしまったようだ。原作の発表が1967年頃だから、もちろんケータイなんてないし、女子高生もあんな超ミニスカをはいているわけがない。
始め原作を現代版にアレンジし直して、ついでに内容も大幅リメイクしたのだろう。・・・と思ったのだが、実は原作から数10年後を舞台にして、ヒロインを原作の主人公の姪という設定にしている。しかもアニメである。
結果的にはこれが大成功の原因だったのかもしれない。当時上映館は僅か250席程度のテアトル新宿だったが、整理券を発行するほど超満員となり、「映画でこんなの初めてだわ」と若い女性たちも興奮ぎみであった。
その後ネットでも断突の高評価を得ていたが、なにせ上映館が少な過ぎたし、東京ではテアトル新宿だけの単館上映だった。あまりにも大好評だったため、その後劇場を変えて再上映ということになったことも忘れていない。
さて肝心なのは映画の中味のほうだが、これも評判通り上出来である。まるで写真のように精密に描き込まれた背景に、ひょろろ~んとして鼻のない柔らかいキャラがよく似合っていた。
ストーリーは、明かるく活発な女子高生が、理科室で偶然拾った『あるもの』によってタイムスリップ能力を身につけてしまう、という学園SFファンタジー仕立てである。
ただタイムスリップといっても、過去の自分に会うわけではなく、どちらかというと『リプレイ』するという感じだ。
なかなか味わい深い展開であり、アニメとは思えないきめ細やかな感情描写に、思わず誰もがスクリーンの中にのめり込んでしまった。そしておっちょこちょいで男まさリだが、明かるく爽やかなヒロインが、とても上手に描かれている。
笑いあり、涙ありの甘酸っぱく、ちょぴり切ないが、とても心地良いファンタジック・ラブストーリーであった。アニメに偏見を持っている人がいたら、是非この作品を観て考え方を覆して欲しい。そして日本アニメの真価を再認識してもらいたいものである。
あのスクリーン一杯に埋めつくされた「ブルーの空と白く青味がかった入道雲」、そしてその空間を跳ぶヒロインの姿が実に美しい。まさしく青春まっただ中。これぞジャパニーズアニメの真髄といえよう。
評:蔵研人
著者:石田衣良
直木賞作家である著者が、満を持してSFに初挑戦した大作である。本作を書くにあたって、著者は「現在日本の出版界は社会的リアリズム全盛で、SFやファンタジーなど想像力に傾斜した小説は商売にならないといわれている。天邪鬼なぼくは、今こそファンタジーを始める時期だと思う」と語ったそうだ。
SFファンにとっては非常に嬉しく、心強い言葉である。そしてかつてのようにSFブームを巻き起こしてもらいたいと願う。さてこのように期待は大きく膨らんだのだが、残念ながら従来のSFの殻を打ち破るほどの大殊勲はあげられなかった。
ストーリーは、脳腫瘍を病む主人公瀬野周司が、その激しい痛みとともに200年後の世界へ「精神だけ」タイムリープする。だがその未来は暗く、黄魔と呼ばれる生物兵器に汚染されていた。
人々はその黄魔から身を守るため、2kmの巨大なタワーを作り、その中でヒエラルキー社会を構築しているのだった。そうしたタワーのひとつで旧新宿にそびえるのが、『ブルータワー』なのである。
瀬野周司の精神が移転する体は、そのタワーの最上階近くに住み、ブルータワーの特権階級の一人セノ・シューであった。彼は正義感に燃え、黄魔から世界を救おうと、未来と現代を何度も往復するのである。
ここまで話せば、映画ファンならなんとなく『マトリックス』『バイオハザード』『ハイライズ』等を組み合わせたような臭いを感じるであろう。もう少しオリジナリティーが欲しかったね。
またハッピーな結末は良いのだが、あの親切過ぎるエピローグは、不要だったのではないだろうか。だからと言って決して駄作ではないし、つまらない作品でもない。余りにも期待を膨らませ過ぎた裏返しなのだろう。著者の次回SF作品に期待したいところだ。
ところで小説としてはいま一つだった本作だが、映画化すればかなりヒットしそうな気がする。ただ大人の視覚に耐えられる作品に仕上げるには莫大な製作費が必要となるので、日本だけの配給では難しいかもしれないね。
評:蔵研人
著者:土橋 真二郎
なんとも奇妙なタイトルに惹かれてこの本を購入してしまったのだが、ちょっと期待し過ぎたようである。登場人物は僅か8名で、場所はだだっ広い倉庫のような場所だけ。その床に描かれた二次元の線によって三次元の仮想空間が設定され、そこでデスゲームが延々と続くという設定である。
二次元の線による舞台設定は、2003年にデンマークで製作されたニコール・キッドマン主演映画の『ドッグヴィル』と全く同じだ。そして前半から中盤までの200頁以上を使って、このゲームのルール説明と辻褄合わせが嫌というほど続くのである。後半になって百の目を持つ「アルゴス」というボスキャラが登場すると急に面白くなるのだが、それまではかなりの退屈感と眠気に耐えなくてはならない。
またタイムトラベルについても、ゲームの中で過去や未来との連続性を確保するためのお遊びに過ぎず、タイムトラベルものを期待して読んでしまうと、なんとなく騙されたようで腹が立ってくる。
この作者の作品は初めて読んだのだが、どうやらその初めてに、この作品が当たってしまったのは不運だったようだ。ただ作中で演じられるゲームの構造については、実に緻密でかなりの緊張感が得られることは間違いない。それにしても、もう少し登場人物の背景や心理描写を丁寧に描いても良かったのではないだろうか。
評:蔵研人
著者:高畑京一郎
著者の高畑京一郎は、1993年の『クリス・クロス 混沌の魔王』で第1回電撃ゲーム小説大賞〈金賞〉を受賞してデビューしたのだが、本作を含めていまだに4作しか書いていないという超・遅筆作家である。本作はそんな数少ない著作の中でも代表的な作品であり、1997年には大林宣彦監督の監修で実写映画化もされている。
さて本作はタイムトラベル系の小説だが、タイムマシンを使って時空を超えると言う方法ではなく、女子高生の危機意識による時間移動という手法を用いて時空を越えてゆく。但し同じ時間軸を二度以上経験することはなく、ランダムに時間を渡り歩くという展開なのである。
そしてなぜそうした現象が生じてしまったのかという謎解きに、ヒロインを狙い続ける犯人の存在が絡んでくる。だからどうなる・どうなると夢中になって、一気にむさぼり読んでしまうのである。
ことに緻密な時間論理構成による時間パズル的な手法は、発表当時には驚くほど新鮮であった。さらにSF・ミステリー・学園・恋愛を絡めたうえにテンポも良く、まさに上質の名作小説に仕上がっていると確信する。
さて『タイム・トラベル』、『タイム・スリップ』、『タイム・リープ』など、時間移動方法には似たような言葉があるのだが、一体これらはどう違うのだろうか。余り自信はないのだが、次のように括ってみたのだがいかがかな・・・。
●タイム・トラベルとは、タイムマシンなどを使って時空移動するオーソドックスな方法
●タイム・スリップとは、地震などの突発的な災害や事故により時空移動する方法
●タイム・リープとは、自分自身の能力や意識により時空移動する方法
こんなところであろうか。
評:蔵研人
タイトルの『バタフライ・エフェクト』とは、一羽の蝶が羽ばたいただけで、地球の裏側で、竜巻が起こるという「カオス理論」のひとつだという。つまり、何でもないことを変えたために、大きな変化が起こる場合のたとえなのである。
繊細でlQの高い美青年が、少年時代の日記を読むことによって、少年時代の意識に介入出来る能力を発見する。そして自分のせいで不幸になり、自殺してしまった幼な馴染みの少女を救うため、過去の自分の行動を何度も変えてみるのだが・・・。
この作品は、タイムテーマとミステリーを上手に組み合わせ、そこにスタンド・バイ・ミー風味をブレンドしたような間口の広い大秀作である。また何度過去を変えても、事態はなかなか好転せず、イライラさせながらも、ラストでは「一番大切なもの」を切り捨てることによって、全員が救われるという皮肉なハッピーエンドを用意している。
製作費は余りかけていないようだが、久々に「本物の映画」を観た感があった。ただのんびりと観ていると、状況把握が困難になり、何が何だか判らなくなるので、じっくりと真剣に観る必要があるかもしれない。
またよく判らなかった人には、映像写真付きの文庫本が発行されているので、解説書代わりに読んでみたらどうだろうか。内容は映画と全く変わらないので、複雑なストーリー展開が良く理解出来るはずだ。但しラストの一行?だけは映画と大きく違っているのでご注意。
評:蔵研人
48歳の会社員中原博史は、京都出張が終わって、真直ぐに東京の自宅に帰るつもりだった。ところが無意識のうちに、フラフラと故郷・倉吉へ向かう特急列車に乗ってしまう。そして変わり果てた倉吉の街中を、トボトボと歩いているうちに、いつの間にか亡き母の菩提寺へ来てしまった。そして亡母の墓前で、昔のことをあれこれと考えていた・・・。
彼の父は彼が中学生のときに、母と自分と妹の三人を残して、突然謎の失踪をしてしまったのだ。その後二人の子供と体の弱い祖母を抱えて、母は一人で夢中になって働き、子供達が独立するのを待っていたかのように、過労のため若くして亡くなってしまったのである。
母の墓前で昔のことを思い出しながら、うとうとして気がつくと、博史は心と記憶が48歳のまま、14歳の中学生に変身していたのだ。信じられないことだが、町に戻るといつの間にやら、そこは懐かしい34年前の故郷の風景に戻っていて、無くなってしまったはずの実家も復活しているではないか。もちろん家には父も母も祖母も妹もいた。つまり34年前の自分の体の中に、48歳の自分の心がすっぽりとタイムスリップしてしまったのである。
この手の展開はケン・グリムウッドの『リプレイ』と全く同じ手法である。ただ『リプレイ』の場合は、未来の記憶を利用して博打や株で大儲けし、美女を思いのままにしたり、という派手な展開であった。そしてある年齢に達すると、再び青年時代に逆戻りを何度も何度も繰り返すというパターンなのだ。
本作『遥かな町へ』は小説ではなくマンガであるが、『リプレイ』のような派手な展開や時間ループはなく、じっくりと、ほのぼのとしたノスタルジーを喚起させてくれる大人向けの作品なのである。さて中学生に戻った博史は、実務で鍛えた英語力と落ち着いた雰囲気で、高嶺の花だった長瀬智子に好意を持たれて、彼女とつき合い始めるようになる。
そして優しく美しい母、働きもので誠実な父、明かるくオテンバな妺、父母の巡り合いを教えてくれる祖母たちとの、懐かしい生活が続くのだった。そんな楽しい中学時代を過ごしていくうちに、いよいよ父が失踪した日が近づいてくる。
人は皆、もう一度人生をやり直せたらと、考えたことが必ずあるに違いない。でもそれは現在の記憶を持ち続けると言う事が条件だろう。そうでなければ、結局はただ同じ事を繰り返すだけで、全く意味がないからである。
しかしながら赤ん坊のときから、以前の記憶を持ち続けてしまったら、きっと化物扱いされるだろうし、自由にならない身体にイライラしてしまうに違いない。だからこの手のストーリーは、ほぼ示し合わせたように、青年時代あたりに戻るのであろう。
もし自分も同じように、現在の記憶を持ったまま過去に戻るとしたら、どうしようか・・・だがそれは無しにしたい!。古い懐かしい思い出は、美しく改竄されたまま、そっと心の中にしまって置きたいし、再びふりだしに戻って生きてゆくことが、とても面倒な年令になってしまったのであろうか。
評:蔵研人
著者:市川 拓司
15年前に映画のほうを先に観たのだが、そのあとすぐにこの原作本を図書館で予約し、約4ヶ月間も待った記憶がある。映画のほうは細かい部分で脚色されているものの大筋は全く同じなので、小説の登場人物の顔と俳優達の顔が見事に重なったものだ。
読み易くて面白いので、通勤電車の往復であっという間に読んでしまったのだが、結末がわかっているものの、やはりラストで涙を流してしまった。
この作品は結末が判らないほうが楽しめるし、その結末がかなり捻れているので、映画を先に観て、小説でじっくりと仕掛けを確認するほうがよいだろう。
さて映画が良いか原作が良いかと聞かれたら、たぶん私は映画のほうに軍配をあげると思う。だからといって、決してこの小説の出来映えが悪いと言う訳ではない。
まるでこの小説は、あの映画を創るために書いた作品のように感じてしまった。DVD化されてまた映画を観たのだが、今度はまた原作を読みたくなってしまった。まるでこの作品のように、グルグルと循環してしまうのだろうか。
評:蔵研人
邦画にしては珍しく、3ヵ月のロングランを記録した作品である。またこの映画を観た知人の感想も、ネットの評価も非常に高く、当時はかなり気になっていた作品だった。
ジャンルとしては、純愛ファンタジーとでもいうのだろうか。韓国系のファンタジックなストーリー展開とやや似ているのだが、この作品のほうが完全に勝っているはずだ。
ストーリーのほうは、妻に先立たれた父と幼い息子が、梅雨の間だけ亡妻(母)と会い、夏の訪れとともに、やがて妻は、別世界へ帰ってしまうという、現代版かぐや姫のようなお話である。
竹内結子の知的な美しさと、ごっつい風貌に似合わず、優しく純な心を持つ中村獅堂と、可愛い子役のアンバランスな取り合せが、不思議なくらいぴたりとはまっていた。
また美麗な映像と山合いの静かなロケーションが、ファンタジックな雰囲気を盛り上げ、観客の心を優しく包み込んでくれたような気もする。
そして竹内結子が別世界へ戻ってからの、メビウスの輪と鏡の裏側を観るような展開には、かなり感動させられた。同時に、精密機械のように巧みに練りあげられた、職人芸のような脚本にも脱帽せざるを得ないだろう。
これで前半少しモヤモヤしていた謎が全て解明され、すっきりとした形でエンディングを迎えることが出来たのである。そしてタイトルの『いま、会いに行きます』の意味も判るはず・・・。
もちろん、涙もろい私は何度もハンケチのお世話になってしまったが、この作品が発する『純愛オーラ』に、周囲の老若男女の全員が、そして映画館全体が涙色に染まってしまったのである。
評:蔵研人
著者:リチャード・マシスン 訳:尾之上浩司
映画のほうは、ご存知スーパーマンことクリストファー・リーブ主演で1980年に上映され好評だった。ところがリチャード・マシスンの原作本のほうは、世界幻想文学大賞を受賞したにもかかわらず、邦文翻訳されたのが2002年だというのである。
従って私もこの本を手にするまでは、原作者がマシスンだとは思わなかった。マシスンといえば、ミステリーゾーンの脚本や『激突』、『縮みゆく人間』、『地獄の家』などで名を馳せており、まさか本書のようなラブファンタジーを書くとは思えない作風だからである。
まずストーリーを簡単に紹介してみよう。
脳腫瘍に冒され余命数ヶ月の主人公R・C・コリアは、あてのない旅の途中で立ち寄った古いホテルで、1896年にそのホテルの劇場の舞台に立った女優エリ一ズ・マッケナのポートレイトを見て一目惚れしてしまう。そして彼は、彼女のことやその時代のことをいろいろとと調べるうちに、75年前にこのホテルの宿泊者名簿に自分の名前を見つけるのだった。
そのことがきっかけとなり、彼は必死で75年前に遡るように念じて、望み通りに過去にタイムスリップするのである。そしてついにホテルの近くにある海岸通リで、美貌の女優・エリーズに巡り合うことになるのだ。
もしタイムスリップという現象さえなければ、この作品は恥しいほどバリバリの恋愛小説といえよう。またR・C・コリアがエリーズを求め続ける心の葛藤や、エリーズの乙女心が少しずつ変化してゆき、完全燃焼してゆくまでの描き方も実に見事である。
これらの心理描写は、映画ではなかなか表現出来ない。まさに本書は、美しい映像で映画を観たあとに、じっくりと読み返して再び感動を得るためのアイテムといえるだろう。この際もう一度映画のほうも観直しておこうと思う。
評:蔵研人