著者:梶尾真治
短編ファンタジーの名手『梶尾真治』にしては珍しい長編ものである。
曾祖父の代から熊本城下の山間にひっそりと佇む百椿庵。ここは名前の通り、椿の花が咲き乱れるお屋敷なのだが、現在は誰も住んでいないため、荒れ果てている。売れない作家の井納惇は、父に頼まれてこの屋敷を管理方々、住み込むことになってしまった。
ところがこの屋敷には、昔から女の幽霊が現れるという。そしてある日、惇は若く美しい幽霊を見てしまうのだ。ところが暫くして、彼女は幽霊ではなく、幕末の百椿庵からタイムスリップしてきた「つばき」という名の美少女であることが判明する。
ストーリーの舞台は、ほとんどが百椿庵とその周辺だけなのだが、全く退屈しないから不思議である。
またタイムトラべルの仕組みや、タイムパラドックスには余り触れてはいないが、それはこの際どうでもよい。このストーリーでの興味の大半は、井納とつばきの清純で淡い恋愛だからである。
原田康子の小説に『満月』という作品がある。こちらは江戸時代からタイムスリップしてきた武士と、現代の女性との恋を描いた作品だ。
本作のほうは、『満月』とは男女の設定が入れ替わり、しかも百椿庵があたかもタイムトンネルかの如く、現代と幕末を男女が行き来するのである。
そういえば、もうひとつ似たような小説で、石川英輔の『大江戸神仙伝』という小説があった。こちらは、江戸と東京を行ったり来たりするおじさんの、ちょっとエッチなラブコメ風味で紡がれている。
その『大江戸神仙伝』でも、本作のつばき同様いな吉という若くて可愛い芸者が登場する。どちらの女性も、若いけれどしっかりもので、落ち着いていて、明かるくて、純真で、優しく男性を立ててくれるのだ。
いまどき絶対に存在しない、全世界の野郎どものあこがれの女性像が満載なのである。しかも主人公はどちらもおじさんで、年もずっと離れているのにモテモテなのだから、これ以上望むことは何もないだろう。
だから本作は著者の憧れの女性像を綴ったものでもあり、男性たち特におじさんたちに、泡沫の安らぎを与えるために書き下ろしたものなのかもしれないね。また熊本名物の由来や美人画の謎との融合は絶妙だし、「りょじんさん」との出会い方もなかなか洒落ている。なんとなく広瀬正の『マイナスゼロ』を髣髴させられるではないか。
ただ惜しむらくは、あのとってつけたようなハッピーエンドである。あそこはそのままにして、いつものカジシンさん流「切ないラブファンタジー」で終ったほうが、いつまでも心に残る名作となったのではないだろうか。
評:蔵研人