タイムトラベル 本と映画とマンガ

 本ブログは、タイムトラベルファンのために、タイムトラベルを扱った小説や論文、そして映画やマンガなどを紹介しています。ぜひ気楽に立ち寄って、ご一読ください。

 タイムマシン、タイムトラベル、タイムスリップ、時間ループ、パラレルワールド、時間に関係する作品を収集しています。まだまだ積読だけで読んでいない作品がたくさんあるのですが、順次読破したら本ブログにて感想を発表してゆきますね。

バック・トゥ・ザ・フューチャー5

製作: 1985年 米国 上映時間: 116分 監督: ロバート・ゼメキス

 34年前に劇場で観て以来、DVDでも2~3回見直しているのだが、何度観ても飽きない超面白い映画である。この映画こそまさにアメリカンムービーの大傑作であり、ただ面白いだけではなく、笑いあり・涙あり・ハラハラドキドキし、そしてラストはスカッと爽やか逆転満塁サヨナラホームランなのだ。

 まさに体内にある溜まったストレスが、全て発散されてしまうという元気の出る映画でもある。そのうえ、タイムトラベルにつきものの親子間のパラドックスなどについても、実に楽しくかつ見事に描ききっている。そして34年経過した現在でも全く陳腐化していないし、いまだにこの作品を超えるタイムトラベル映画も出現していない。とにもかくにも、誰が観ても全く文句のつけようがないほど完成度の高い超エンターテインメント作品なのだ。

 この映画を知らない人はほとんどいないと思うので、あえてあらすじやキャストについては省略したが、もしまだ未見の人がいたのなら、是非DVDをレンタルして観ていただきたい。三部作であり、第一部だけは完結して観ることが出来るものの、時間があれば是非全作品を楽しんで欲しい。とは言っても、やはり第一作が一番完成度が高いのは言うまでもないだろう。

評:蔵研人

時生5

著者:東野圭吾

 重松清の『流星ワゴン』は、父が過去にタィムスリップして息子と会う話だった。ところが本作では、逆に瀕死の息子がタイムスリップして、若かり日の父に逢いに行くのだ。どちらかというと、浅田次郎の『メトロに乗って』と同様の構成なのだが、ムード的には『流星ワゴン』のほうに近いかもしれない。

 著者の文体は相変わらず素人臭いが、読み易いのとアイデアが面白いので、サクサクと読み進んでしまうのである。それが東野マジックなのだろうか。
 さて若かりし日の父は、自分を捨てた母を恨み続け、刹那的でヤケッパチに生きてきた。それがある日、未来の自分の子である時生と巡り合うことによって、少しずつ変貌してゆくのだった。

 ところで父と息子の関係ほど微妙で複雑な関係はない。父は息子を愛すると同時に嫉妬し、息子は父を尊敬しつつも憎しみを持つ。あたら近親なだけに、逆に呪いのような骨肉争いも生じるのだろうか。
 こうした作品を読んでいると、自分も一度父親の若かり日を垣間見たい衝動にかられる。それにしても実に楽しい作品で、過去・現在・未来が交錯する集大成作品と言ってもよいだろう。いつも思うのだが、東野圭吾の小説には「ハズレ」というものが全くないところが凄いよね。

評:蔵研人

サウンド・オブ・サンダー3

 本作はSF小説の巨匠レイ・ブラッドべリの短編『いかずちの音』を映画化した、時間テーマSF作品である。さて話の内容だが、近未来でタイムマシンが完成され、大金持ちの間で時間旅行が流行する。ところが客の一人が規則を破り、大昔の世界から『あるもの』を持ち帰ってしまう。そのおかげで生態系が変化し、現代に戻ると大異変が起きてしまうというお話なのである。

 ところがネットでは、何故かこの映画の評判がすこぶる悪い。しかしそれでブルってしまっては、「時間テーマ好き」の名が廃る!。と言うわけでつまらなくてもともと、という気持ちで映画館に足を運んだものだが、良いほうの期待外れであった。
 確かに全生物の再構成という、人類の危機を描く「超々大スペクタクル巨編!」にしては、余りにも登場人物が少な過ぎるし、軍隊も出動しないのはどうしたことだろう。そのうえ恐竜のCGもゲーム並だった。つまりB級に限りなく近い映画なのである。たぶんこれが悪評の原因なのかもしれない。

 しかしB級好きで、時間テーマの虜になっている私にとっては、非常にワクワクドキドキの楽しい映画だった。殊にイグアナとゴリラの合いの子のような進化した恐竜達には、妙に納得してしまった。たぶん爬虫類が進化すれば、類人猿のようになるのかもしれない。
 またタイムマシンで戻ったときに、いきなり環境が変わるのではなく、序々に変化してゆくのである。この変化のタイミングは、「時間の波」が押し寄せるたびに起こる、というアイデアも面白かった。もちろんそうしないと、戻ったとたんに映画が終わってしまうけどね・・・。まあ何を期待してこの映画を観たのか、という部分の違いでこの作品の評価も大きく分かれるところなのかもしれない。
評:蔵研人

タイム・リープ あしたはきのう5

著者:高畑京一郎

 著者の高畑京一郎は、1993年の『クリス・クロス 混沌の魔王』で第1回電撃ゲーム小説大賞〈金賞〉を受賞してデビューしたのだが、本作を含めていまだに4作しか書いていないという超・遅筆作家である。本作はそんな数少ない著作の中でも代表的な作品であり、1997年には大林宣彦監督の監修で実写映画化もされている。

 さて本作はタイムトラベル系の小説だが、タイムマシンを使って時空を超えると言う方法ではなく、女子高生の危機意識による時間移動という手法を用いて時空を越えてゆく。但し同じ時間軸を二度以上経験することはなく、ランダムに時間を渡り歩くという展開なのである。
 そしてなぜそうした現象が生じてしまったのかという謎解きに、ヒロインを狙い続ける犯人の存在が絡んでくる。だからどうなる・どうなると夢中になって、一気にむさぼり読んでしまうのである。
 ことに緻密な時間論理構成による時間パズル的な手法は、発表当時には驚くほど新鮮であった。さらにSF・ミステリー・学園・恋愛を絡めたうえにテンポも良く、まさに上質の名作小説に仕上がっていると確信する。
 
 さて『タイム・トラベル』、『タイム・スリップ』、『タイム・リープ』など、時間移動方法には似たような言葉があるのだが、一体これらはどう違うのだろうか。余り自信はないのだが、次のように括ってみたのだがいかがかな・・・。
タイム・トラベルとは、タイムマシンなどを使って時空移動するオーソドックスな方法
タイム・スリップとは、地震などの突発的な災害や事故により時空移動する方法
タイム・リープとは、自分自身の能力や意識により時空移動する方法
 こんなところであろうか。

評:蔵研人

タイムスリッパー -YUKIの跳時空ー4

作者:野部利雄

 1984年から、2008年にタイムスリップしてきた女子高生の由希。24年前の彼女は、清純で超ボインの美少女だった。そして過去の彼女が現代にタイムスリップすると同時に、現代の中年由希お母さんは別の次元に消えてしまう。
 つまりタイムパラドックスが起こらないよう、同人人物が同じ時空に留まることは出来ず、中年由希が美少女由希と入れ替わったことになる。

 従って当然だが、美少女由希は24年前の記憶しか持っておらず、中年由希とは別人格の存在なのである。現代の世界では、結婚して高校生の娘がいるし、未来世界なのだから、美少女由希は全てに戸惑うばかり。もっとも警官である夫も女子高生の娘も、はじめはその成行きが信じられない。

  作者の野部利雄は、地味な漫画家で知らない人も多いと思うが、あの浦沢直樹がアシスタントをしていたこともある。その絵柄は丁寧で美しい。実をいうとこの漫画を買うきっかけになったのも、タイムトラべルものということと、表紙を飾る清楚で美しい女子高生の絵に惹かれたからである。

 読み始めた頃は、タイムスリップを利用しただけの学園マンガなのかと思った。だが読み進めて行くうちに、タイムパラドックスなどについても、きちっと描いている正当なタイムトラべル作品であることに気付いた。
 そして話をダラダラと引き伸ばすこともなく、全3巻できっちり完結している。アシスタントだった浦沢直樹は、引き伸ばし名人だが、地味でも流石師匠は一流である。潔くて好感が持てるね。

評:蔵研人

この胸いっぱいの愛を 小説4

著者:梶尾 真治

 ある場所から、6人の男女が同時に20年前の世界にタイムスリップする。その6人は、どうしても過去に戻ってやり直したいことがあるということで共通していた。本作はこのタイムスリップした6人それぞれの行動を、5つのショートストーリーに分割して描いた群像劇ということになる。
 正式な原作は梶尾真治の『クロノス・ジョウンターの伝説』で、それを同著者が映画化を睨んでノべライズとしてアレンジしたものらしい。従ってストーリーは、ほとんど映画と変わらないのだが、重要な部分が映画では省略されていたり、変更されていたことが判った。

 また映画ではタイムスリップしたのが4人だったが、小説のほうでは6人なのである。正確にいうと、省略された2人はカップルだったので、お話としては1つのストーリーがカットされたことになる。
 たった1つのストーリーだが、このお話は5つのストーリーの中でも2番目に素晴しい話で、かなり泣ける話でもある。そして、このストーリーの拠点となる鈴谷旅館とも接点を持ち、ラストの展開にも影響することになるのだからかなり重要なのだ。
 もう1つはラストシーンが、大きく異なっていることである。映画では大不評だったラストと異って、小説のほうは実に見事な締めくくりを施しているではないか。

 それから映画の中では、タイムスリップやパラドックスに関わる論理が全く不在だったが、小説のほうでは多少無理はあるものの、それなりに納得出来る理論をちりばめていた。さすが小説は素晴しい・・・というよりは、これを映画化した監督と脚本家のセンスのなさに改めて呆れてしまった。
 タイムパラドックスを扱った似たような映画といえば、『いま、会いにゆきます』がある。これも映画、マンガ、小説のハシゴをしたが、こちらは映画のほうに軍配をあげたい。例え原作ものでも、創り方次第では映画が勝つことも出来るのである。

評:蔵研人

この胸いっぱいの愛を 映画3

 ある場所から、4人の男女が同時に20年前の世界にタイムスリップする。またその4人は、どうしても過去に戻ってやり直したいことがある、ということで共通していた。
 1人は盲導犬と離れ離れになってしまった老女であり、2人目は過去に他人の花壇を壊したまま、謝り忘れてしまった世界的に著名な学者である。そして3人目は、出産と同時に母親を亡くしてしまった暴力団のチンピラで、全員が過去にやり残したことを成し遂げると、元の世界か何処かへ消えてゆくのだった。

 最後の4人目が主人公(伊藤英明)で、彼が少年時代にあこがれていた近所のお姉さん(ミムラ)に逢うことになる。このお姉さんは、天才バイオリニストなのだが、主人公の少年時代に病気で死ぬことになっている。
 なかなか興味深いテーマであり、切なくて感動的なシーンも多く、子役も含めて出演者それぞれが、持ち味を生かした良い作品であった。とくにミムラが、とても魅力的な女性になり切っていたと思う。また中村勘三郎、賠償干恵子などの大物が、チョイ役で出演していたのにもちょいと驚いた。

 ただ時間テーマものとしては、設定にかなり無理があったし、反則技も乱発していたのが気に入らない。
 過去の自分に会うことは、タイムパラドックスを引き起こすためタブーのはずだが、最初から最後まで自分と一緒に暮らすのだから、かなり安易な設定ではないか。そもそもそんな過去があればそのことを覚えていて、現状の行動には繋がらなかったはずだから、主人公のストーリーは成り立たないのだ。

 また過去を変えれば、現在も変わるはずだが、何も変わっていない(あるいは説明不足か)のも納得しかねた。それに、あれ程慕っていたお姉さんと、いつの間にか疎遠になってしまったパラレルワールド?にも矛盾を感じるし、余り気分が良くはなかった。
 もっと上手な種明かしが出来ないところに、この監督の限界を感じるのだ。更には、観客サービスのつもりで挿入したような、ラストの天国らしきシーンも余計な一幕だったのではないだろうか。

評:蔵研人

地平線でダンス4

作者:柏木ハルコ

 この作者の作品は、いつも悪女の存在がしつこいのと、主人公と思われる人物の主張がなかなか実現されないというイライラであろう。だからいつまでもストレスが発散出来ないのだが、次の展開が気になって続きを読みたくなるという矛盾した麻薬的な力を持っている。

 さてこのコミックのストーリーは、ワームホールを利用したタイムマシンの実験で、間違ってマシンに搭乗し、肉体は消滅したものの、心だけが末来に跳んでしまう女性研究員のお話である。
 この話の中で興味深かったのは、過去へのタイム卜ラベルは不可能というパラドックスを崩したことである。つまりタイムマシンで過去へ行けるなら、なぜ今まで未来人がタイムマシンでやって来なかったのか?という疑問が残る。
 その他よく言われる「親殺しのパラドックス」や、本人との遭遇などについては、無限にあるパラレルワールドの存在を認めることによって解消出来る。だが「なぜ今まで未来人が来なかったのか」の回答にだけは窮していたのである。

 ところが本作のタイムマシンは、過去と未来のワームホールの間しか移動出来ない。だから過去に行くにも、初めてワームホールが作られた日より以前には跳べないのである。
 これで「なぜ今まで未来人が来なかったのか」の回答が可能になるのだ。つまりタイムマシンもワームホールも、現状では発明されていないからだということである。いやはや簡単明瞭に解決したものだ。もし著者が考えたのなら大天才だが、多分どこかで仕入れた理論なのであろう。
 タイム卜ラベル・パラドックスが大好きな私にとって、このことだけで十分にこのマンガを読んだ価値があった。あとは読んでのお楽しみ。全5巻なので読み易くて気に入っている。

評:蔵研人

地下鉄(メトロ)に乗って 映画4

 ご存知、浅田次郎の同名小説を、映画化した作品である。原作ものを映画化すると、原作を読んだ人達は、どうしてもつっこみを入れたくなるようだ。
 しかし商業ベースの映画には、いろいろと制約があり、原作を舐めるように再現することは不可能である。また映画は単に原作の映像化ではなく、映画としての持ち味を発揮することが本分なのだから、原作をアレンジしても仕方がないだろう。
 そのことを念頭に置いて、この映画のレビューを書きたいと思う。

 傍若無人な父親と絶縁した主人公長谷部真次は、地下鉄で過去にタイムスリップしてしまい、そこで若かりし日の兄と父に逢う。またなぜか、会社の同僚で愛人の「軽部みち子」も、一緒にタイムスリップするのであった。
 父母が若かったとき、彼等は一体何を考え、どういう生活をしていたのだろうか。話には聞いていても、実際に自分の目で確かめたいと、誰でも一度は考えるだろう。
 この作品はタイムスリップという手法を使っているものの、決してSFではなく「父と息子」の間に横たわる永遠のテーマを投げかけているのだ。

 私の場合は、既に小説を読んでいるので、『三丁目のタ日』のように懐かしき昭和時代の映像に期待していた。ところが新中野の駅前はオート三輪と、オデオン座の建物以外には、余り懐かしさを感じなかったね。また闇市にも、新宿のイメージが湧いてこなかった。この辺りに製作費の貧弱さを感じてしまった。
 あとキャストについて、小沼佐吉の若かりし日は、大沢たかおではなく、別の俳優が演じるベきだった。大沢たかおでは、余りにも年令が乖離し過ぎているし、映画を観ている人にすぐに父親であるネタがバレてしまうじゃないか。
 それと吉行和子の母役も何かピンとこなかった。ちょっとイメージが違うんだね。八干草薫あたりのほうが適役だと思う。

 また終盤のみち子とお時の『階段事件』のあと、真次が現在に戻って会社に行ったときの女性事務員が若過ぎるのだ。よく見ていないと、みち子なのかと勘違いする人もいるかもしれない。あそこは、みち子とは全然別の人と判るようなオバさんのほうが良いだろう。
 それから社長に一言「みち子って一体誰のこと?」ぐらい言わせないとだめだね。小説を読んでいる人ならば事情が判るが、初めてこの作品に触れた人や、タイムパラドックスを知らない人には、パラレルワールドの世界を認識出来ないだろう。
 このあたりに、この監督の限界を感じてしまった。またお時やみち子の描き方も足りないが、これは上映時間という制限もあるので、ここでそれを言及するのはやめておこう。

 ところで、このタイトルに係る重要なことで、兄が地下鉄で自殺するというシーンが、トラック事故に変更されてしまったのである。しかしこれは、多分東京メトロ側が拒否したのだろう。東京メトロの協力なしには、この映画は完成しなかったことを考えると、これは仕方がないのかもしれない。
 一方俳優さん達は、全員が役にはまり込んで素晴らしかったね。大沢たかおが絶賛されているが、むしろ淡々とした役柄を巧く表現した堤真一を誉めてやりたい。またみち子を演じた岡本綾の、可愛らしさの中にかい間見る、憂の漂う表情が実に良かったね。またオープニングとラストシーンに顔を出す、田中泯の強烈な存在感ある演技にもしびれてしまった。

 さてと、父と息子をテーマにした作品は数知れないが、その多くが相反する父子感情を描いている。なぜこうも父と息子は反目しあうのだろうか。
 実は父と息子は、親子である以前に「ライバル」同士なのではなかろうか。それに時代背景の違いを、お互いが理解しようとしないのも食い違いの原因なのだろう。
 私の父は長男で、少年の頃から貧しい一家を支えてきた。そして大平洋戦争に行き、戦後も胃ガンの発病を無視して無理な労働を重ね、42才で鬼籍に入ってしまった。

 一方、子供の頃から働くことが嫌いで、いつも家業から逃げ回っていた私は、同じ長男であっても、父とは月とスッポンほどの違いであった。だから父にはよく怒鳴られたし、思い切り殴られたものだ。当然そんな父の印象は、ただただ怖い人ということだけだった。しかし若くして父が忙くなったとき、一番悲しんだのは、以外にも私だったのだ。
 父が亡くなって、既に半世紀以上経ってしまった。もしも今、父が生きていたら介護で大変かもしれない。しかし一度でいいから、酒の好きだった父と二人で、一献傾けたかったと思う初夏の夕暮れである。

評:蔵研人

地下鉄(メトロ)に乗って 小説4

著者:浅田次郎

 直木賞『鉄道員(ぽっぽや)』を書いた浅田次郎が、吉川英治新人文学賞を受賞した作品である。過去にタイムスリップして、自殺した兄を助けに行ったり、反目している父の若かりし日を訪ねるため、「戦後」、「戦中」、「戦前」、「戦後」・・・と時間軸を行ったり来たりするのだ。
 ところで地下鉄のことを「メトロ」と呼ぶのはフランスであり、イギリスでは「チューブ」とか「アンダーグラウンド」、アメリカは「サブウェイ」で、ドイツでは「ウーバーン」と呼ぶらしい・・・。日本では「メトロ」という言葉が一番馴染んでいるし、なんとなくそこはかな郷愁さえ感じてしまう。ことに銀座線と丸の内線には、ピッタリの呼び名であろう。

 さてこの話を読み始めたときは、古い地下鉄の出入口が、『タイムトンネル』になっていると思っていたのだが、どうもそうではないらしい。家で眠っているときにも、タイムスリップしてしまうからだ。
 結局なぜタイムスリップしたのか原因も判らずじまい、もしかすると全てが主人公の妄想か、夢だったのかもしれない。しかしもしそうだとすると、何故「みち子」が登場したのか説明し辛くなってしまう。その辺りは曖昧であり、エンディングも余り歯切れが良くなかった。

 どうして浅田次郎の作品は、いつも切なく救われない話が多いのだろうか。確かにこの小説はSF的な手法を使ってはいるが、実は似たもの同士の「父と息子の確執と苦悩」を描いた心理小説と言えないこともない。
 そしてこの場合、「みち子」の存在は、嫌悪していた父と同様に、主人公も愛人を持ちたいという願望が作り出した妄想だったと、解釈するしかないだろう。そしてそれを皮肉な結末と結びつけると、主人公の父に対する激しい愛憎と情念を体中に感じてしまうのだ。
 確かに父と息子の関係は難しい。息子にとって父親は、なくてはならない存在なのだが、父親がその存在感を示せば示すほど、若い息子は父を恐れたり憎んだりするものである。やがて父が死んで息子が成長したときに、初めて父の偉大さを知り、父を尊敬する時が来るのだ。さてさて父親とは、なんと報われない存在なのだろうか・・・。

評:蔵研人

ギャラリー
  • バック・トゥ・ザ・フューチャー PART3
  • ペギー・スーの結婚
  • からくりアンモラル
  • 我妻さんは俺のヨメ
  • 思い出エレベーター
  • 君と僕のアシアト
  • 幻告
  • マンガで読むタイムマシンの話
  • ヴィルトゥス