タイムトラベル 本と映画とマンガ

 本ブログは、タイムトラベルファンのために、タイムトラベルを扱った小説や論文、そして映画やマンガなどを紹介しています。ぜひ気楽に立ち寄って、ご一読ください。

 タイムマシン、タイムトラベル、タイムスリップ、時間ループ、パラレルワールド、時間に関係する作品を収集しています。まだまだ積読だけで読んでいない作品がたくさんあるのですが、順次読破したら本ブログにて感想を発表してゆきますね。

恋はデジャ・ブ5

製作:1993年 米国 上映時間:101分 監督:ハロルド・ライミス

 私の「生涯べストシネマ」のうちの1本である。最近レンタルアップしたビデオテープを購入し、約20年振りに改めて鑑賞してみた。この作品を観るのはこれで4回目だが、飽きない、陳腐化しない、何度観てもワクワクして爽やかである。
 主演はビル・マーレイと私の憧れの君、「アンディ・マクダウェル」である。まあそれだけでも嬉しくなるのだが、ストーリーがとても面白いのだ。
 ビル・マーレイ扮する、イヤミで自己中な天気予報士フィルは、とある田舎町の聖燭節を取材に、アンディ・マクダウェル扮する美人プロデューサーのリタと同行する。

 ところが急に大雪になり、町から出られなくなってしまうのだ。そして翌朝ホテルで目覚めると、「昨日」に逆戻りしているではないか。しかもその状況が毎日毎日、エンドレスに繰り返されるのであった。
 フィルはこの退屈な繰り返しを、女性をくどいたり、悪ふざけをして楽しむことにした。やがてそれらに飽きた彼は、美人だが真面目でお堅い、リタを口説くことに専念する。
 彼女の好みを毎日調べあげて、手を変え品を変えアタックするのだが、あと一歩というところで巧くいかない。さてさて二人が、それからどうなるのかは、観てのお楽しみ!

 ・・・といった展開のラブコメであり、最後まで画面から目が離せなかった。
 ただ中盤、フィルが何度も生き返るシーンだけは、ちょっとしつこ過ぎるかな。一番のハイライトは、彼がけなげに何度もピアノレッスンに通って、パーティーで実力を発揮するシーンだね。
 本当にあれは良かった。最初は何故レッスンを受けているのか理解出来なかったが、後で「なるほどそんな遠大な計画だったのだ!」と感心しちゃったね。そして感動の余り、思わず涙ぐんでしまった。
 僕がアンディ・マクダウェルにメロメロになったのは、実はこの映画がきっかけなのである。

評:蔵研人

さよならの代わりに3

著者:貫井徳郎

 なんと綿密で用意周到なストーリーなのだろうか。ミステリーなのかSFなのか、最後の最後まで明かさないところがなかなか憎いね~。
 劇団『うさぎの眼』の一員である主人公和希は、未来からタイムスリップして来たと言い張る祐里とつき合ううちに、ある殺人事件に巻き込まれてしまう。
 この殺人事件の犯人が、なかなか判らない。終盤になって犯人が解明されると、なんだと思うくらい当たり前の人物が犯人だった。普通ならこいつが犯人だと思わせて、実は全く思いがけない人物が犯人だったりするものだが、このあっさりし過ぎた展開は、逆に新鮮に感じるから面白いものだ。

 またタイムトラベル中に、インターネット上のフリースペースを使うというアイデアが斬新で見事だったね。おそらく僕の知っている限りでは、初めて登場したタイムトリックである。
 ラストは実に切ない結末であるが、不思議と涙が出てこなかった。『さよならの代わりに』祐里が残した言葉が、明かるい別の未来での再会を暗示しているからであろうか。ヒシヒシと、心に染み込んで琴線に触れるような、しみじみとしたお話だった。

評:蔵研人

もしも昨日が選べたら4

製作:2006年 米国 上映時間:107分 監督:フランク・コラチ 主演:アダム・サンドラー

 『クリック』という原題もつまらないが、この邦題もちょいと誤解を招き易いタイトルだ。つまり何度も昨日をやり直す、『ターン』あるいは『恋はデジャヴ』のようなストーリー展開なのかと勘違いしてしまうからである。

 この映画の流れは、仕事と家庭サービスの板挟みになったアダム・サンドラーが、ひょんなことから『人生万能リモコン』を手に入れ、人生を操るつもりが、実は操られてしまうという仕組みなのだ。
 この『人生万能リモコン』は、リモコンを向けた先が、TVであろうがガレージであろうが、はたまた動物でも人間でも何に対しても効力を発揮するのである。
 例えば、犬の声がうるさければ、リモコンを犬に向けて「消音ボタン」を押せば、犬の泣き声が聞こえなくなる。また面倒な事態が生じたら、「早送りボタン」を押せば、猛スポードで面倒な事態がスッ跳んで行くのだ。

 さらにはリモコンを自分に向けて「巻戻しボタン」を押せば過去に戻る事も出来る。まるでドラエモンの「ポケットタイムマシン」である。
 ただし未来には行けるものの、過去に戻るほうは、過去の映像を観ることしか出来ない。だからタイトルのように、昨日を選ぶ事は出来ないし、やり直しも利かないのだ。これがこの映画の最大のポイントになるのだから、冒頭で邦題のつけ方がおかしいと言ったのである。

 まあ・・・だからといって、この映画がつまらないわけではない。どちらかと言えば、かなり面白い映画だしリモコンのアイデアも見事である。
 また前半はコメディで、中盤のリモコンを使いまくる派手なシーンは、ジムキャリーの『マスク』を髣髴させられるだろう。そして後半はややシリアスタッチに変って、かなり泣かされる事になる。涙あり笑いあり、多彩な音楽にアクションとスピード感も満点と、まさにエンターティンメントの王道のような映画なのだ。
 そしてエンディングクレジットを観ながら、誰しもが主人公の人生を、自分の人生に重ね合わせ、しみじみとした気分になるであろう。ただ難を言えば、余りにも大味でご都合主義のアメリカンタッチである事と、家族全員が皆良い人ばかりなのが鼻につくかもしれない。

評:蔵研人

削除ボーイズ03264

著者:方波見 大志

 第一回ポプラ社小説大賞を受賞したSFジュヴナイル。ミステリアスな展開もあり、大人が読んでも十分楽しめる作品に仕上がっている。
 主人公は小学生なのだが、いやに老成している感がある。ブログを運営したり、株の売買をしたり、好きな異性に告ったりと、まさに高校生も顔負けなのだ。
 それとも僕が遅れているだけで、最近の小学生達は、実際にこれほどマセコケてしまったのだろうか。TVやネットの影響を考えると、そうであっても不思議ではないがね。小学生達の実態を知っている方がいたら、この際に是非教えて頂きたいものである。

 さてこの小説で大活躍する削除マシンは、過去の一定時間を削除してしまうという、一種のタイムマシンである。だが過去を削除すると、タイムパラドックスにより現在も変わってしまう、という大きなリスクが伴うのだ。
 またタイトルの「0326」とは、削除マシンで削除出来る最大時間「3分26秒」のことを指している。だがマシンを使っているうちに、この時間もだんだん短かくなってくるのだ。その短い時間設定は、話の拡散と矛盾の坩堝にはまらないための安全装置なのだろう。

 あえて結論を出さずに終幕となってしまったのだが、読者に結末をバトンタッチする手法は、決して間違ってはいないはずである。342ページの厚い本ではあるが、会話が多く読み易いので一気読みしてしまった。

評:蔵研人

クロノスジョウンターの伝説4

著者:梶尾真治

 クロノスジョウンターとは、簡単に言えば「タイムマシン」のことである。命名したのは梶尾真治だが、クロノスとは時間の神であり、ジョウンターは、A・べスターのSF『虎よ虎よ』に書かれたジョウント(瞬間移動)をもじっているらしい。
 ストーリ一は、このクロノスジョウンターに試乗した4人の軌跡を、オムニバス風に4つの短編に分割して描いている。クロノスジョウンターは、タイムマシンであるが、過去に行くには限界がある。そして過去に滞在している時間が限られており、時間がくると自動的に未来に飛ばされてしまうのだ。

 また過去に行くほど、その反動が強くなり、より遠くの未来に飛ばされる仕組みになっている。それがこの物語を面白くしている最大要因であろう。だから背景は同じでも、どの作品にも独特の雰囲気があり、どれもが同じくらい面白いのだ。
 一作目は、一目惚れした女性を救うために、1時間前にタイムスリップする男の話。
 二作目は、取り壊されてしまった骨董品的な古い旅館を観るために、5年前に戻る男の話。
 三作目は、少女時代にあこがれた青年の命を救うために、完成された薬を持って過去へ戻る女医の話。
 そして最後の四作目は、他の三作とはやや異なり、『クロノス・コンディショナー』という、過去の自分の体に心だけが戻る、というマシンを体験した女性の話で、外伝扱いとなっている。

 どれもがファンタジックな恋愛物語で、しかもどの作品を読んでも、心がハッピーになれるのが嬉しい。
 最近、昔の時間テーマアンソロジーを読んだが、ほとんどがドタバタタッチの短編SFでうんざりしてしまった。ところが梶尾真治の時間テーマものは、SFというよりファンタジーの香りが強い。そしてリリカルでロマンチックである。もちろん好みの問題であるが、僕はそんな味が大好きなのである。
 それから映画用ということで、この『クロノスジョウンターの伝説』を大幅に書き直した作品が、ノベライズの『この胸いっぱいの愛を』であることを付け加えておこう。

評:蔵研人

イルマーレ(米国版)3

製作:2006年 米国 上映時間:98分 監督:アレハンドロ・アグレスティ 主演:キアヌ・リーヴス、サンドラ・ブロック

 この映画は、2000年製作の韓国オリジナル版をハリウッドでリメイクしたものである。『イルマーレ』とは、イタリア語で”海”のことらしい。だからオリジナル版では、あの家は海辺に建っていた。
 ところが米国版では、湖畔の家に変わっていたのである。従って『イルマーレ』は邦題で、原題は『The Lake House』となっていたのである。

 テーマは“2年の時空を超えた文通恋愛“ということで一致しているが、バックボーンの設定には、かなり変更が加えられていた。
 まず主役の二人だが、米国版はご存知『スピード』コンビの、キアヌ・リーブスとサンドラ・ブロックであるが、オリジナルはイ・ジョンジェとチョン・ジヒョンという一回り以上若いコンビでなのである。
 ここでは若い二人が演じるオリジナルに、軍盃をあげたい。やはり“時空を超えた文通“などというは、当然純情な若者同士のほうが似合うからだ。
 それでもあえてキアヌとサンドラを起用したのは、リメイクという名に対するヒガミだろうか。それで『スピード』以来の大物俳優コンビが、客寄せパンダに指名されたのかもしれない。

 それから家の前に建つ時空を超えるポストだが、オリジナルではロマンチックなデザインでやや大きめのポストだったのに、米国版は何の変哲もない古ぼけた小さなポストなのだ。このポストこそ、この作品の本当の主役なのであるから、もう少し夢のあるデザインに出来なかったのだろうか。こんなところに、この監督のデリカシーのなさが顔を出してしまうのだ。
 あと家のデザインもオリジナルのほうが良かった気がするが、これは好みの問題かもしれないし、オリジナルの家は少しキンキラキンかもしれない。
 米国版がオリジナルに劣るようなことばかり書いてしまったが、やはり街の風景や音楽、そして全搬的な映像の美しさは、米国版のほうが断然素敵である。そして大人の味がする。だからデートで観るなら米国版のほうが、絶対に盛り上がるだろう。

 恋する二人はポストでは繋がっているものの、文通が始まった時、キアヌが2004年、サンドラが2006年に住んでいるのだ。そしてスクリーンは2004年と2006年を行ったり来たりする。だからこの物語の流れを多少理解していないと、何が何やら判らなくなるかもしれない。
 またオリジナルとの比較になってしまうが、オリジナルは2年の時空のズレによる悲恋を描き、全搬的に切なくリリカルロマンスの香りがする。そして二人はなかなか巡り逢いの扉を開くことが出来ないのだ。

 一方の米国版は、あっさりと巡り逢ってしまい、彼女の居場所まで判ってしまうのだから、なぜすぐにアタックしなかったのかの疑問が残る。そして時空の違いに苦悩することも少なく、簡単に結ばれてしまったような気がするのだ。これは国民性の違いだと思うが、同じアジア民族としては韓国の感性のほうに同調してしまうのである。
 また二人とも恋人らしき異性が存在しているのだが、どういう関係なのだろうか。また彼等の存在そのものに何か意味があったのだろうか。
 最後にタイムトラべルものに必ずつきまとう”タイムパラドックス”について一言。ラストのドンデン返しには、エンドレスのグルグル回わりのタイムパラドックスが生じているが、難しく考えずにパラレルワールドの世界なのだと片付けてしまおう。但しオリジナルのほうは、パラレルワールドではなく、“リプレイ”なのだろうね。

評:蔵研人

僕を殺した女 4

著者:北川歩実

 それにしても随分と思い切ったタイトルをつけたものだ。それに「ある朝目覚めると主人公篠井有一は、ヒロヤマトモコという美女になっていた」という設定をどこかで聞いた事があるだろう。
 そう・・誰でもが知っている、「ある朝目覚めると僕は、巨大な毒虫になっていた」という、フランツ・カフカ『変身』の冒頭を思い出すはずである。この小説では、主人公の篠井有一が、女性に変身してしまっただけでなく、5年間の記憶も全くなくなってしまった、という設定になっている。

 最初は5年前の世界から、見知らぬ女性の体の中に篠井有一の心がタイムスリップしたのだと思った。ところがこの小説は、そうした時間テーマSFではなかったのだ。どちらかというと、サスペンスとかミステリーというジャンルなんだね。
 テーマは、主人公篠井有一の正体解明に終始することなのだが、本人の自問自答が中心であり、心象風景もコロコロと変貌してゆくんだね。
 そして話が進むに従い、SFよりももっと荒唐無稽な現実が、読者の前に剥き出しにされる。そして二転三転しながら複雑に絡みあったパズルを解いてゆくのだ。

 もしかすると、安部公房のような一風変わった純文学とも言えるし、夢野久作のようなサイコ小説といってもおかしくないだろう。
 それにしても、この北川歩実という作家は、男なのか女なのかさっぱり判らない。聞くところによると、年齢も含めて一切が不詳の覆面作家だというのだ。
 あの北村薫も当初は覆面作家だったというが、なんらかの賞をとれば、身元はバラさずにはいられない。
 ではなぜ覆面をするのだろうか。サラリーマンで、二足のワラジを会社に知られたくないのだろうか。それとも売れなくなった超有名作家の小遣い稼ぎなのだろうか。
 いずれにせよ売れっ子になれば、やがて正体が明かされる日も来るだろうが、こやつはただものではない気がする。

評:蔵研人

天然理科少年4

著者:長野まゆみ

 表紙の写頁は、吉田美和子さん製作の「美少年人形」である。とても清楚で幻想的で、この小説のイメージにピッタリだと思う。なお各章の扉には、ノスタルジックな詩と、コメント付きの美しい写真も飾られている。

 さてわずか147頁の薄っぺらな文庫本なのだが、なかなか丁寧に創ってあり、とても気分が良いのだ。
 放浪癖のある父親と二人で生活し、短期間に転校を重ねる少年が、ある田舎町で遭遇した不思議なお話を描いたファンタジー小説である。その淡々として瑞々しい人物描写と、センチメンタルな郷愁に、なんとなく昔読んだ『つげ義春』のマンガを思い出してしまった。

 また小柄な賢彦少年との巡りあいが、「バナナ檸檬水」というのも、古めかしさの中にお洒落な香りが漂っている。さらに父の名が「梓」で、少年の名が「岬」とは、二人ともなんと優しくロマンチックな名前ではないか。
 そしてこの名前の由来と父の心が、時空を越えて見事に繋がり、そっと宝石箱を開くように、煌びやかに過去が解き明かされてゆく。それはなんとも、心地良い締め括りであろうか・・・。

評:蔵研人

20世紀少年 全22巻+別巻2冊3

著者:浦沢直樹

 本作をタイムトラベル系の作品として紹介するのは、やや躊躇いがあったのだが、妄想的に過去と現代を行ったり来たりしているので、一種のタイムリープと考えてここで紹介することにした。

 それにしても浦沢直樹氏は、一体ポケットをいくつ持っているのだろうか。『YAWARA!』、『MASTERキートン』、『MONSTER』、『PULUTO』、そして本作『20世紀少年』と、全く毛色の違ったヒット作を、次々と書き続けている。天才というのか、感性豊富というベきか、あるいは努力家なのだろうか。
 ほぼ共通しているのは、登場人物が多く謎を小出しにし、しつこくそれを追いかけるというパターンであろう。あとローマ字のタイトルが好きだということかな・・・。それから長編物に限れば、話をどんどん広げてしまい、最終回になって急にボルテージが下ってしまう悪いクセもある。

 本作にもその傾向が現れていて、主人公と思れる人物が何人も登場する。つまり群像劇なのだ。最初はケンヂ、次がオッチョで、カンナへと繋いでゆく。そして時々「ともだち」が顔を出す。そんな具合で、最後は誰が主人公なのか判らなくなってしまった。
 そしてストーリーは、少年時代と現在をいったり来たり・・・。このような手法は、白土三平の『カムイ伝』そのものであり、浦沢氏も多分その影響を受けているのだろう。

 また『鉄人28号』もどきのロボットが登場するところから、ここで描かれている少年時代とは、昭和30年頃と推測される。浦沢直樹氏の年令からすると、まだ彼が生まれて間もない頃である。後に描かれる『PLUTO』も、『鉄腕アトム』のオマージュだから、同じく昭和30年頃のマンガの影響を受けているのだ。団塊の世代であれば分かるのだが、なぜもっと若い彼が、この時代に興味を持つのか聞いてみたいものである。
 この時代の東京は、車も少なかったし、土地も安かった。それであちこちに空地が沢山あり、三角べースの野球をしたり、キャッチボール等をしたものである。
 このマンガの主人公達も、そんな原っぱの空地で、隠れ家ゴッコをしていた。そしてそこで生まれた荒唐無稽な空想が、大人になって次々と実現されてゆくという展開なのだ。

 まず先に述べた『鉄人28号』もどきのロボット、細菌による世界壊滅、東京での万博開催などなどが、次々と現実のものとなる。これらの事件の主犯と思われるのは、「ともだち」と呼ばれる新興宗教の教祖で、ケンジたちの少年時代の友人なのである。だから少年時代に謎を解く鍵があり、それを現在起こっている事件と結びつけてゆく。
 少年時代の描写は、まるで『スタンド・バイ・ミー』の世界であり、自分の少年時代とも重なって、懐かしさが竜巻のように蘇ってくる。ちょうど同じ頃『三丁目のタ日』などのレトロブームが起こり、団塊の世代たちが小躍りしたマンガであろう。

 このマンガは、全22巻でやっと終了した。ところがその終わり方が、夜逃げをしたようで、すこぶる評判が悪いのだ。どうみても、無理やり店じまいをしたとしか思えない。
 新作『PLUTO』に早く乗り換えたくなったとも噂されている。これだけ引っ張ったのだから、ラストにはもっと感動的な「再会シーン」を用意して欲しかったよね。

 殊にこのマンガの大きな謎である「ともだち」の正体が、不明のまゝ終了した事には、強い疑念と不快感を表明したい。売れっ子マンガ家の悲哀というのか宿命というのか、浦沢氏に限らず強引に引き伸ばしたと思ったら、急に打ち止めという長編マンガが多いよね。
 せっかく楽しく読ませてもらっても、これでは水の泡である。大体10巻位で終了するような構成が一番艮い。そういう意味では、岩明均の『寄生獣』を見習って欲しい。このマンガは引き延ばそうとすれば出来たものを、きちっと無理なく10巻で完結させているではないか。

 また出版社側も営業第一だけではなく、もう少し読者と作品を大切にする心を育んでもらいたいものである。そういった不満が多かったせいか、その後別巻の上巻が発行された。これを読む限り、なるべく読者の不満を解消しようとする気配を感じた。
 ああ良かったと思ったのだが、そのあとに発行された下巻を読んだところ、まだ奥歯にものの挟まった状態に逆戻りなのだ。どうして浦沢直樹という人は、もったいぶるのが好きなのだろうか。彼は何のための上下巻追加発行だったのかを、全く理解していないようだね。それともこれが彼の限界なのだろうか。

評:蔵研人

異邦人 fusion4

著者:西澤保彦

 いゃ~驚いたな、それにしてもなんと面白い小説なのだろうか・・・。だから朝の出勤時に読み始めて、帰りの電車では一気に読了してしまった。西澤保彦の本は、『七回死んだ男』以来だったのだが、どうやら「SFミステリー」というジャンルを確立しそうな勢いを感じてしまったな。
 さてストーリーをかいつまんで紹介しようか。
 主人公の永広影二は、東京の大学で助教授をしていて、郷里に帰るため羽田から飛行機に乗る。搭乗前に空港から実家にいる姉の美保に電話を入れると、『月鎮季里子』の小説を買って欲しいと頼まれる。月鎮季里子とは姉の昔の恋人であり、現在は東京で小説家になっているというのだ。
 そう、姉の美保はレズビアンだったのである。そして季里子とかけ落ちする予定が、父の急死によって中止になり、意に反して家業の食堂を継ぐ羽目になってしまったのだ。

 「父の死」、それは23年前に郷里の砂浜で起きた殺人事件であり、今だに犯人が捕まっていない謎の事件である。もしこの父の死がなければ、美保も無理に養子をとって家業を継ぐ必要もなく、東京で季里子と幸福に暮らしていたはずだ。だが弟の影二を大学に入れるため、自己犠牲を選択してしまったのである。
 そうしたやり切れない過去が、たえず影二を悩ましていた。さてこの日は珍しく、昔美保が編んだセーターと、やはり美保にもらった腕時計を身につけていた。
 そして郷里の空港へ着陸した途端に、影二は23年前の世界へタイムスリップしてしまうのである。そこで偶然、まだ14才だった天才少女・月鎮季里子に出会い、3日後に起こるであろう、父の死を阻止することを決心するのだった。

 ・・・とまあざっとこんな感じで話が展開してゆくのだが、タイムトラべルやそのために引き起こされる「タイムパラドックス」についても、これでもかとばかり丁寧に解説されているのが嬉しい。
 ところで、新貨幣やクレジットカードなどは、過去に持って行けない。また手帳やボールペンは持って行けるものの、他人に渡すと消えてしまう。などなど、余り理論的ではない設定が気になったが、アイデアとしてはとても面白いではないか。もちろん作者も、このあたりは熟知していて、クドクドと言い訳がましい文章を繰り返していた。

 ではなぜそうした設定に拘ったのだろうか。例えば未来の品物を持ち込むことによって、歴史を歪めないためだとしたら、なぜ影二自身がタイムスリップ出来たのだろうか?
 その疑問については、作者が先回りして言い訳をしているのだが、なにかすっきりしなかったことは否めない。まあそれはそれとして、前半のノスタルジックな描写と、終盤の犯人探しに加えて父親が助かるのかどうか、の展開はハラハラドキドキで、ミステリー作家の面目躍如といったところだろうか。
 ただハッピーな終わり方は良いとしても、余りにもご都合主義過ぎる結未は、この作品の価値を少し下げてしまったような気がしてならない。もし終わり方さえもっと上手にまとめていたら、広瀬正の『マイナス・ゼロ』に並ぶ大名作に仕上がったのではないだろうか。そう考えるとつくづく残念あり、もったいない気分が充満してしまうのである。

評:蔵研人

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